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2006年5月27日のジョグジャカルタ大地震発生直後から
2009年のいままで被災救援を続けています。

救援募金は郵便振込みで、No.00180-9-405237
C・P・I教育文化交流推進委員会 宛てお願いします。





C.P.I.の拠点跡 ■□□□■■□■ 崩壊したC.P.I.ジョグジャカルタ事務所
    2006年5月29日
    悲しいことに、まずお見せしたいのは崩壊した僕らの拠点事務所跡だ。
    1992年から15年間、ここに大勢の教育里子たちが集い、励ましあい、
    そしてここから巣立っていった。
    家庭が貧しくても才能のある思春期の若者たちは、
    我々の教育里子として
    夢を描き、悩みを打ち明けあい、
    日本の僕らもいっしょに苦悩を分かち、
    僕らはささやかな支援と引き替えに、彼らから永遠の信頼をもらった。
    そういう歴史を知っている壁や床や天井が、一瞬にして瓦礫となった。
    僕らは、レンガのひとつひとつに有難うと言って、
    新しい歴史を造り始めなければならない。
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■□□□■■□■ 借家を使っての現地救援ベースキャンプ
    2006年6月7日
    家を借りて救援のベースキャンプを置いた。
    (右から5人目筆者。その右、駐在の前田聡子)
    最近になって他所に引っ越した人が、「使ってください」と貸してくださった。
    「家賃なんていらないですから」とのありがたい申し出に頭が下がる。
    家の中は、各地から届いた物資でいっぱいになった。
    6月9日には、被災がひどい Imogiri、Bantul、Klaten 地域対策を協議。
    とくに教育里子いる部落の人々と話し合いをした。
    食料はほぼ大丈夫、学校の教材のうちノートとペンは
    全国教員団体が支援しているという。
    そこで、水の供給と住生活支援に絞って、かなり具体的に話し合った。

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仮設のC.P.I-PPKIJ救援ベースキャンプ

みんなテント生活だ ■□□□■■□■ 民衆は、テント生活を強いられている
    2006年6月9日
    寄付の額により、できることは決まってくるが、
    テント生活を余儀なくされていて疲れているのを改善できるかどうかだ。
    「この機会に村の集会所が建ててもらえば臨時住める。 これからも役立つ」
    民衆との話し合いでは、その要望が強かった。
    日本に帰ってから、僕自身も寄付金の要請活動に加わることにした。

    ところで、C.P.I.の教育里子たちは結果的に全員の無事が確認された。
    ひとり行方不明だったのだが、病院でみつかったのだ。胸をなでおろした。

    以下の写真と文は、地震直後、6月28〜30日の調査報告。
    C.P.I.は日本のNGOで最も早く現地に入ったので、
    みなさんに生の様子を伝えたい。

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■□□□■■□■ Retno Widowatiさんの家跡
    2006年6月9日
    教育里子 Retno Widowati さん(女性)の家はこのように全壊した。
    「娘はね、行方不明になった友だちを探すために出かけているんだよ」
    お父さんとお母さんが、すまなそうに話す。
    学年会長をしていた彼女は、人一倍の責任感のある娘だ。
    きっと、友だちが心配でじっとしていられなかったのだろう。
    でも、そういう子は忙しく動くあまり交通事故にあったりするので
    「心配している。今は、家のことをしなさいと言っておいて」
    と伝えてもらうことにした。

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家は跡形もない

懸命に働いていたLindaさん ■□□□■■□■ 高校の卒業試験にも影響が大きい
    2006年6月9日
    教育里子 Linda Futrianiさん(女性)は、全壊の家で働いていた。
    「だって、試験が近いんだもの。苦労して作ったノートだけは探したいの」
    家族の家を立派になおすのも自分の役目だと彼女は言う。
    「だから、とにかくきちんと卒業試験に合格しなくては駄目なの」
    と思いつめたように話す。
    いつも笑いを絶やさない彼女の、こんな顔を見るのは初めてだった。
    彼女の、青年会のリーダーとしての能力を発揮してもらうためにも、
    最低限の必要な支援をしてあげたいと思う。

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■□□□■■□■ 寝どころを失うのは大変なこと
    2006年6月9日
    教育里子 Sinta Dian Pratiwiさん(女性)は、残った屋根の下に
    なんとか寝床を造ろうとしていた。
    「また崩れたら危ないよ」と僕らは注意したが、
    「どこにもいく所がない。崩れないことを神様に祈るだけですから」
    とけなげなことを言う。
    弟が少し怪我をしたそうだ。
    「亡くなった人たちのことを思えば、神様に助けて戴いたと感謝したい」
    家具が少し助かったが、全壊と同様だ。神様に願ってばかりいられない。
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Sintaさんの家族

病院に寝泊りするAstuti ■□□□■■□■ 行方不明者を病院で探しまくった
    2006年6月9日
    教育里子 Astuti Sagita Sariさん(女性)の母親は大怪我をした。
    レンガの塊が頭を直撃して気を失っていたという。
    現地で組んだC.P.I.の救援隊(5名)によると、
    Panti Rapih 病院に家族を見つけるまで、時間がかかったという。
    「病院に運ばれた知りあいのリストを作って、そこからたどった」そうだ。
    どうにも政府の対応が遅い。
    各地のC.P.I.地域リーダーに連絡して、青年委員会に協力を要請した。
    間の悪いことに5月29日の夕方から豪雨となり、
    多くの子どもたちが教材を瓦礫から取り出す暇もなく使い物にならない。
    (皮肉なことに、その後はまったく雨が降っていない)

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■□□□■■□■ NGOの仲間と、励ましあいをする
    2006年6月9日
    教育里子 Febri Wulan Sariさん(女性)は、教材の半数を取り出せた。
    それ以上は、5月29日夕方の豪雨で駄目になった。
    「こんなことがあるなんて…。明日からどうしたらいいの?」
    アシタカラ、アシタカラ、アシタカラ、ドウシタライイノ…????

    困っていたところに、天幕を配るNGOの車が到着した。
    近所の人々が急いで張る。
    イスラム協会のNGOのトラックだという。
    「政府の援助?インシャアラー。とにかくやれることをやるさ」
    トラックに乗った若者が白い歯を見せる。
    僕らが赤ん坊用のミルクを配っているのをみて、親指をあげて走り去った。

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Febliさんと母親
Ratnaさんと母親 ■□□□■■□■ Ratma Agus Astutiさんへの支援と、C.P.I.の支援姿勢
    2006年6月11日
    ここで、左の写真、Ratma Agus Astutiさんへの救援を例にとりながら、
    C.P.I.の緊急支援を説明しておきたい。
    我々は、教育里子に持続的な支援をしている団体だ。
    また、彼らを通して地域社会の課題を考え、歩を進めている。
    教育里子支援での協力学校を拠点に組織的救援をする方法もある。
    僕らには、それをできるネットワークがある。
    しかし今回は、教育里子のいる地域民衆が避難している天幕内への
    救援に絞って活動している。
    初動からこれまで(6月9日)は、天幕ごとに服・水・食料の配布をしてきた。
    その後のほかのNGOの動き、政府の動きをみて、
    今後の方針を立てつつある。
    早期にコミュニティホールを建て、地域の人々の寝床を確保したい。
    その間に、NGOや政府による仮設住宅が建つだろう。
    その後、コミュニティホールを僕らの新たな教育支援拠点としたい。
    救援姿勢としては、このような方針を立てている。
    Ratnaさんの場合、家・生活用品・教材などの支援が50万円必要だ。
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■□□□■■□■ 一見して大丈夫そうな家が、実際には崩壊していた
    2006年6月11日
    教育里子 Cholifatur Rosidahさんの家族のケース。
    家を訪ねてみると、一見壊れずにいるようにみえた。
    ドアを叩くと、「そこから離れてください」と中から声がする。
    そうっとドアを開けて恥ずかしそうに出てきたCholifaturさんが説明した。
    「外で寝るのは怖いから、屋根がないけど中にいるんです」
    入ってみて驚いた。屋根がほとんどなくなり、足の踏み場もない。
    「使えるものを掘り出しているんですけど、まだ屋根の代わりがないの」
    壁も一面にひびが入っていて、このケースは全壊と同じだと思う。<
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出てきたCholifaturさん

これしか着るものがない ■□□□■■□■ 「着るものを」の要請は多かった
    2006年6月11日
    教育里子 Muhammad Arya Azhari君(男性)は、父親と一緒にいた。
    母親は怪我をして病院にいるとのことだった。
    「寝ていたらいきなり家が壊れた。お母さんを助けて這い出した」
    Arya君は、そのときの様子をこう話した。
    父親とふたりで、なんとかテントを張れる場所をつくるまで5日かかっている。
    「地域の天幕に暮らしているけれど、雨は降るし着るものがなくて困る」
    ということだったので、2回目の物資輸送で服を大量に入れた。
    しかし、いまのところトラック3台分ほどしか入れられない。
    引き続き、各地の青年委員会に協力要請を出すことになった。
    トラックのレンタル代金や燃料代が結構かかる。
    資金の支援をお願いしたいところだ。

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■□□□■■□■ C.P.I.は、教育里子の全壊家庭の復興を行ってきた
    2006年9月30日
    これまでに全壊家庭20軒を復興した。
    右の写真は、記事の上部にある教育里子 Linda Futrianiさん家の復興後。
    左端にいるのはC.P.I.のインドネシア連絡スタッフ Ms.Ika。
    各戸に使用した材料費は3,200,000ルピア。
    日本円で43000円くらいで、竹の柱・竹製の壁網・セメントを調達した。
    レンガや扉は、瓦礫の山を整理して使えるものを探した。
    大学の社会奉仕課程(8月に行われている)に協力を要請し、
    一戸あたり15名のボランティアとして働いてくれた。
    C.P.I.とPPKIJ (C.P.I.の現地カウンターパート)による、この
    『民衆参加による復興プロジェクト』 はとても人気となり、
    テレビや新聞で大きく報道された。
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復興できたリンダさんの家

ユニセフの学校支援でも、まだこの有様 ■□□□■■□■ C.P.I.による復興を待つ人々は多い
    2006年9月30日
    C.P.I.は、まず自分たちのが面倒をみている教育里子のうち
    全壊家庭の救援を行ってきた。
    それが一段落して見回ってみると、
    男手を失った家庭はいまだに瓦礫整理もできずに苦しんでいた。
    幼稚園や学校も、教室は復興されておらず、
    ユニセフが支援しているこの学校でも、写真のような有様だった。
    「職員室だけでも竹の家を造ってもらったので、教室は後でね」
    とは、学校の先生の話。

    私たちの、効率よい復興が報道されたためか、
    「こちらの地域の復興を手伝って欲しい」
    と救援本部に訴えに来られる方々も毎日だ。
    しかし、いま救援資金が集まってこないのが悩みだ。

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■□□□■■□■ (閑話休題)それにしても、ボルブドゥールが助かってよかった
    2006年10月13日
    救援仕事の合間にボルブドゥールに行ってきました。
    この、世界最大の仏教遺跡が地震で駄目になったと
    思っておられる方も多いらしいが、
    ご安心あれ。地震の被災ラインから外れたため、無事です。

    ブランバナン遺跡は、内部の石組みの点検作業のため
    現在は中に入れません。
    ユネスコに任せることになりそうです。

    こういう大きい復興は、個人の寄付では到底追いつかないし、
    だいいち手を付けることさえ許されません。
    それにしても、ボルブドゥールが無事でよかったぁ。

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ボルブドゥールに行きました